被災地の救護活動で思ったこと

峰のりこ(日本赤十字社医療センター)

2011年3月11日14時46分、その時、私は救護服を着ていた。救護貞研修で「整体」の講義の真っ最中であった。DMAT隊員としてすぐ準備したが、この時は初動救護班としての出動となった。初動救護の経験は初めてではなく、精神的な余裕はあった。しかし、「地震と津波は違う」と今は思う。初動につきものの情報のなさ、道の確保などの難題を班月とともに乗り越え、宮城県に入った辺りから、もはや当院の災害対策本部とは連絡がつかなくなっており、陸の孤島という気持ちがした。12時間後、石巻赤十字病院へ到着した。

本部へ案内してくださったスタッフが小さな声で「低体温の患者さんが多く運ばれてきています」と教えてくれた。私はその一言を聞いた瞬間、「ああ、まだ生きている被災者がいる、助けることができる」と一膀安堵した。限られた情報で知る限り、整体を行わなければならないかと半ば覚悟していた。日頃、日赤DMAT研修会でお世話になった先生方の顔を見てほっとすると同時に、その樵件ぶりに心が痛みながら病院支援を行う。病院スタッフは曹、家族の安否もわからないまま、「この病院しか機能していない、自分たちが救うしかない」という思いで懸命に救護している。少しでも役に立つことができればと思いながら活動した。病院前にd-ERU(国内型緊急対応ユニツりのテントを展開し、いつの間にか増え続け途絶えない患者をケアしながら、さらに身をもって津波被害の甚大さを知る。ヘリコプター、トラック、救急車で被災者が次々に運ばれてくる。泥だらけでずぶ濡れで一切合財を失った人々、トリアージタグの住所の無意味さ、救護所すらも見つからない人々、子どもを捜索してほしいと消防隊へ訴える母親、テントの傍らで遠くを見ている一人ぼっちの子ども。どこにいるのか、助かっているのか、今何が起きているのか、徐々に明らかになる情報を食い入るように見ている安否確認所の多くの人々……。からだと、そしてこころに大きな傷を負っている一人ひとりの被災者に今、何ができるのか?無力感を感じながら必死にケアをし、「救護はこころです」と自分に言い聞かせていた。私が救護貞を目指すきっかけになった、「救護の神様」と言われた師長の言葉である。災害救護は決して特別なことではない。救援活動は自分が普段考え、行っていることしかできないからだ。「今、私にできることは何か、すべきことは何か」を考え、相手にとって必要なことを限りある資源の中で五感を(時には六感を)使って心を込めてすることであり、それは看護の原点だと思う。故人も含めて、今ここにはいない、私を育ててくれた先輩方なら、こういう時にはどうしたのだろう、と思えば心強かった。現地から帰る道すがら、携帯が通じる地域に入った瞬間、メール受信。その数70件近く。災対本部に常駐していた上司、同僚、家族や国内外の友人など、全て私の安否を気遣うものだった。多くの人々に支えられていた。「今日は人の身、明日は我が身である。いついかなる時も今、何ができるかを考え一歩ずつ進んでいくしかない。何かをすること、手を差し伸べることだけが救護ではな
い。ともに在ること、寄り添うこと、思いを馳せること」を大!那こしていきたい。救援活動を終えた今も、この体験は忘れられない思いとして持ち続けている。今、私は自部署である手術室の災害対策に取り組んでいる。

 




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